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西行桜狸山

俗に狸山といい、塩屋治兵衛の狸面の伝承を持ちますが、明暦2年に西行法師が桜の精(仙人)と問答を交わす熊を現した人形を用いるようになって、その名を西行桜狸山と改めました。
狸は、屋上に載せられて、祭の先導ととも守護とも見られるようになり、祭日の天気を守ることになりました。これにちなんで、この山は毎年くじとらずで、先頭を巡行します。
所望は、花の中から仙人が現れて、西行法師と問答します。

西行桜狸山の概要

慶長年間(1596-1611年)、塩売洽兵衛なる者が天孫神社境内で木製の狸の面を付けて踊りをしたのが起りという。現在の山の形は寛永12年(1635年)に始まり、明暦2年(1656年)に大体できたというが、現行のものは材料、様式ともに江戸末期以後のものが大部分と認められ、ことに昭和の初め(六年頃)に唐破風屋根などの大改造があって、現状となった。構造形式は向唐破風造曳山式、三車輪、上・下部に大別、上部の木柱(方柱面取)、斗供出三ツ斗、上層後部に高欄付壇を置く。屋上前部に狸像を立てる。

大正末期頃の西行桜狸山(絵葉書複写)
 西行桜狸山の旧影で、昭和初頃に買った絵葉書を複写したもの。従って撮影時期は大正末期頃まで溯るかもしれない。その後唐破風以上は大改造され、材料形式など皆新らしくなった。唐破風の形(曲線)、三つの懸魚(もとはこのように菊、現在は桜)、屋根の葦き方、鬼板など、現状は旧姿と全く違っている。ひと口に言えば一般人が見て「立派に、派手になった」と言えよう。下部の車輪や轅(ながえ)などは、この写真から見た処では変っていないようである。

近藤豊 記「大津祭総合調査報告書(2)西行桜狸山 大津祭曳山連盟 大津市教育委員会 発行 1972年発行」より抜粋

曳山の名称ふりがな: 
さいぎょうざくら たぬきやま
町名: 
鍛冶屋町   
創建された年: 
寛永12年(1635)創建
人形と所望 : 
人形 二層の中央奥に金欄の衣、絽の法衣をつけた西行法師(大人形)が右手に中啓、左手に数珠をもって立っている。その上手前に塩瀬の包衣に麻の素袍(すおう)をつけた都人がひかえている。下手の柱の傍に桜の古木が一本前方に水平に延びている。この奥に桜の精翁人形がひそんでいる。 所望 桜の樹の根元から次第に姿を現わした桜の精(翁人形)が前方に進み、廻って、腰をおとし、又立ってくるっと回る、又前に進んで以前の振りをもう一度繰り返えしてふりむいて消える。この身振りは西行法師と法問答する態を表現したことになっている。
その他: 
曳山様式 西行桜の曳山構造様式は、唐破風を持つ屋根に右手を上げて日和見する狸公を立て、別名狸山と異名をとり、くぢ取らずで先行する姿は近江都邑の豊かなロマンのある風流をいやが上にもかもし出している。省り見るに大津は元来、わが国最高の大衆芸能文化の粋をあますところなく結集した平安京の芳香を沐びながら、しかも近江人特有の趣向にてらして、3つの風流文化を、即ち一つは京師の舁山(かきやま)の能人形を、次にあやつりとからくりの前期の様式を、最後に鉾山様式を一つに融和統合をはかった。この大津独自の庶民的創造の理想は、中世期的能の近江猿楽の幽玄と中世期的華香の和合と調和であった。ゆえに曳山人形と演戯の風流文化の基盤は大津にあり、大津を究めずして斯道の研鎖は不可能であろう。 山崎構成 記「大津祭総合調査報告書(2)西行桜狸山  大津祭曳山連盟 大津市教育委員会 発行 1972年発行」より抜粋
からくりの説明: 
謡曲「西行桜」から取材。花の中から仙人が現れて、西行法師と問答する。
ビーコン情報のパスエイリアス: 
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画像: 
動画URL: 
https://www.youtube.com/embed/NOH1xnGGci8
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