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Jingu-Kogo yama

It’s associated with the legend that the Jingu Empress fished for sweetfish in Hizen (Kumamoto) and predicted the victory. She was pregnant at that time. After the war, she gave birth to Oujin Emperor safely in Kyushu, Therefore,, so the mountain is believed in as a safely delivered mountain. believed for the safe childbirths. The karakuri describes the empress writes on a rock with a bow and the kanji characters are shown one after another. It is regarded as a novel writing mechanism made created in the Edo period.

Seioubo zan     

Seioubo who lived in Mt. Konron-san camedown to this world with celestial nymph. She gave a peach fruit to the emperor and celebrated his longevity. This peach was so precious that the flower blossomed once in one thousand year and only one bore fruit. After that it's also called “momoyama” because Momotarou's story was seasoned. The karakuri describes that a peach is broken into two pieces and a child is born from the inside.

Shojyo yama     

It is originated from an imaginary animal, shojyo. Once upon on a time, there was Kofu, who lived in a village in Tang, He was told to go out to Yoshi’s town and to sell liquor in his dream. He was given a liquor pot by shojyo who lived in the sea. The liquor did not run out or change the taste forever. The karakuri describes Kofu serves shojyo sake with a big cup.

Saigyosakura-tanuki yama

The origin of the float is associated with the wooden raccoon dog-mask of worn by salt vendor Shioya Jibei and it was originally called Tanukiyama or the float of a raccoon dog. Then people named it Saigyosakura-tanukiyama since Saigyo Hoshi used a doll of a raccoon dog which had a dialog with a spirit of cherry tree (sakura). The raccoon on the roof of dog crowning the float is regarded as the leader and guardian of the festival and he also defends the a keeper of the fine weather on the festival day. This float heads a procession every year after the story.

西王母山

むかし、崑崙山(こんろんさん)住む、西王母が天女とともに舞い下って、君に桃の実を捧げ長寿を賀しました。この桃は三千年に一度、花が咲き、一個しか実らない貴いものでした。その後、これに桃太郎の説話を加味したものといわれています。俗に「桃山」と呼ばれています。所望は、桃が二つに割れ、その中から童子が生まれます。
西王母山(桃山)の概要
西王母山は丸屋町から出る山で、普通に「桃山」ともいっている。大津市役所の調査資料によればその製作年代は明暦二年(1656年)と古いが、現在のものはその後の何回かの改造や新造部分が多く、建築関係では江戸初期まで溯るところは少ないようである。この山の由来は上記資料によると次のようである。むかし国栄え、民の生活が安定していたとき、西王は天から舞い降り、天子に桃の実を捧げた。この実は唯の実でなく、三千年に一度開花し、唯一つだけ実るもので、これを捧げたのは天子の齢を祝い、世の平和を祝福したものである。この説話をもとにできたのが西王母山、通称桃山であるが、のちこれに桃太郎の話が付加され、囃子に合わせて桃の中から出た桃太郎が扇子を開いて桃の枝を渡り、舞い終って元の桃の中へ戻るという所作をするのである。能楽の「西王母」から思い付いたと言われる。

猩々山

能楽の「猩々」から考案したもので、むかし、唐の国の揚子の里に住む高風という親孝行なものがいました。ある夜、夢に「揚子の町に出て酒を売れ」と教えられ、売っていたら、海中に住む猩々から酌めども尽きず、飲めども味の変わらない酒の壺を与えられたといいます。
所望は、高風の酌で、猩々が大盃で酒を飲むところを現しています。
猩々山の概要
この山は、能楽の「猩々」に因んだものである。すなわち「昔中国の揚子の里にコウフウー高風という人がおり、親孝行であった徳により夢の中に奇瑞があらわれた。それはコウフウが揚子の街に出て酒を売れば必ず富貴な身分になるだろう、ということであった。彼はこのお告げに従って酒を売っていたら、海の中に住む猩々が来て酒を飲み、舞に興じた後、コウフウの正直な心に感じて酌めども飲めども尽きない酒の泉を与えられた」という故事によったものである。

神功皇后山

神宮皇后が戦に先立ち、肥前国松浦で鮎を釣り、戦勝を占ったとされる伝説にちなみます。なお、神宮皇后は当時懐妊されていましたが、戦が終わって後、九州の地で応神天皇を無事出産されたことから、この山は、「安産の山」として信仰されています。
所望は、皇后が岩に弓で字を書く所作をすると、次々と文字が現れてくるからくりで、江戸時代の文字書きからくりとしては、斬新な機構とされています。
神功皇后山の概要
大津市教育委員会発表の資料(昭和40年)によれば、この山の由来は「神功皇后が三韓へ行かれる前に、今の長崎県北松浦在の鮎釣り岩で真直な釣針で鮎を釣り上げた時の説話に基く」としており、又この時皇后は懐妊中だったが、同所で後の応神天皇を安産、よって安産の神として市民が信仰しているという。

月宮殿山

謡曲の鶴亀(喜多流では月宮殿)にちなんだもので、唐の皇帝が不老門に立って、美しく立派な前庭で春を祝う会を催され、世を寿がれました。俗に「鶴亀山」とも呼んでいます。
所望は、頭上に鶴と亀の冠りをつけた男女の舞人が皇帝の前で舞うところ。
見送り幕は、トロイ落城の情景を現したゴブラン織りで、国の重要文化財です。平成11年10月に新調されました。
月宮殿山の概要
月宮殿山、鶴亀山とも呼ばれるこの山は能楽「鶴亀」に因んで名付けられたという。これについては『日本百科大辞典七』(大正5年3月三省堂)によれば「唐土の皇帝不老門に出御あり、壮厳華麗を極めたる庭上に青陽(春の光)の節会を行はる。さて佳例により月宮殿にて鶴亀の舞を奏せしめられ、御感の余りに皇帝も舞楽をなして世を寿かせらる」とあり、山の名はこれに由来している。(大津市役所の資料も上記辞典に拠る)。もと鳳凰台といい、寛政三年(1791年)に「月宮殿山」としたという。市役所資料では今の山は安永五年(1776年)の作とある。

郭巨山

俗に「釜堀山」ともいいます。中国二十四孝の一人郭巨は、家が貧しくて老母を養うのがやっとでありました。子供が生まれましたが、老母は自分の食を減らして孫に与えねばなりませんでした。
「子供はまた得られる。母は再び得ることはできない。」郭巨は妻と相談し、子供を土中に埋めようと穴を掘ったとき、そこから黄金の釜が出てきたという故事によります。
所望は、郭巨がくわで穴を掘り、黄金の釜を掘り出すところです。

由緒
 町有文書「四宮祭礼牽山代記」によると
一、元禄六葵酉年 郭巨山 橋本町
一、享保十五庚戌年 橋本町牽山天井綺麗に替る。
一、明治十九年 橋本町から鍛冶屋町に譲渡されたが、明治二五年後在家町などに譲られ現在に至っている。買却の理由は曳山の保存維持に際し、世帯数が急減したためと伝えられている。

西宮蛭子山

古くから西宮の蛭子様を出して飾り、祀っていましたが、後に曳山に載せるようになりました。鯛を釣り上げたえびすさんに商売繁盛を祈るといいます。
所望は、えびすさんが鯛を釣り上げる所作。この所作から俗に「鯛釣山」と呼ばれています。この曳山が作られた頃は、宇治橋姫山と称していましたが、延宝年間以後、いまの西宮蛭子山に変えられたといわれています。

西宮蛭子山の概要
 この山は恵美須山(えびすやま)あるいは鯛釣山(たいつりやま)といい、市役所の資料によれば最初は宇治橋姫山と言ったとのことである。そして明暦二年(1856年)にでき、のち延宝年中に西宮恵美須山にかわった。古くから毎年えびす様を出して飾り盛大に祭っていたが、後に曳山に載せ、所望に答えるようになったという。

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