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龍門滝山

黄河の上流の竜門山の滝は、どんな魚も上がれないが、もし上がる魚があれば、直ちに昇天して龍になるという故事にちなみます。登竜門という語もここからでました。
所望は、龍門の滝を鯉が躍り上がるところを見せます。鯉のからくりは宝暦12年(1762)在銘でわが国最古のものです。俗に「鯉山」ともいいます。見送り幕「トロイアの陥落図」は、ゴブラン織りで国の重要文化財に指定されています。
龍門滝山の概要
鯉山は別名を竜門滝山ともいう。向唐破風をもつ三輪の曳山で、製作年代は享保二年(1717)というが、多くの部分は江戸末期乃至それ以後に造り替えられている。主体構造は下層の車台、その上の下層(1階)櫓、これより上に挺出して向唐破風の屋根を支える四本柱、及び屋根部分の部材が組合わされてできている。下層は上層を引立たしめるためのものとも言うべく、組立完成後は織・漆・金・木工々どの工芸をすべて用いた装飾品で飾られ、上層の床上の後方に障壁を、その前に「鯉の滝上り」を飾る。これがこの山の名の由来する処であり、所謂登竜門の語もあるように、滝と鯉とがあらわきれている。建築および工芸的な装飾品について略述すれば次のようである。
下層見送り:ゴブラン織「平和の図」 (重文)
四本柱:方柱、黒漆塗、上部金欄巻を装う。

殺生石山

能楽の殺生石から考案したもので、鳥羽院に寵愛された玉藻前(たまものまえ)は、実は、金毛丸尾の狐で帝の生命を奪おうとしていたのを安部泰親に見破られ、東国に逃れ、那須の殺生石となって旅人を悩ましていましたが、玄翁和尚の法力によって成仏したといいます。
所望は玄翁和尚法力によって石が二つに割れ、玉藻前の女官姿の顔が狐に変わるところを見せます。別名「玄翁山」といいます。

殺生石山の概要
 殺生石山は玄翁山とも言い、大津市教育委員会発表の資料(昭和40年)によれば、延宝元年(1673年)、一説に寛文二年(1662年)に造られたという。この山の由来については同資料に「能楽・殺生石を取り入れたもの。鳥羽院に寵をうけた玉藻御前は実は金毛丸尾の古狐で、帝の生命を縮めんとしているのを安部泰親に発見され、東国に逃げ上総国三浦之介に退治され、殺生石となる。そして那須野ケ原で農民を悩ましていたが、玄翁和尚の法力で解脱(成仏)する。」という説話に基づくという。

源氏山

紫式部が石山寺において「源氏物語」を書いた伝承にちなんだもの。そのため、紫式部の十二単や、曳山全体が、平安の昔を偲ばせる造りとなっています。
所望は石山をかたどった岩の中から、潮汲み馬、御所車、かさ持ち、木履持ちなどが現れては消えていきます。回り舞台の原型であるといわれており、現存するものでは、全国で二番目に古いものです。俗に「紫式部山」とも呼ばれます。

湯立山

天孫神社の湯立ての神事は、この山が捧げるといい、山の形は天孫神社をかたどり、廻りはその回廊を真似ています。
所望は、祢宜(ねぎ)がお祓いをし、市殿(いちどの)が笹で湯を奉り、巫女が神楽を奏します。この所作から、「おちゃんぽ山」の愛称があります。昔から、この湯をかけられたものは、五穀豊穣、病気平穏、商売繁盛など縁起がよいといいます。
最初は孟宗山といっていましたが、寛文年間にいまの名称となりました。

湯立山の概要
 大津市教育委員会、社会教育課の調書(昭和40年)によれば、湯立山の創始は曳山中最古で寛永3年(1826年)と伝えるという。天孫神社の祭事に湯を奉献する行事があり、その湯はこの山から捧げ、この湯をかけられた人は五穀豊穣、悪疫退散、商売繁昌すると縁起を祝う。現在の湯立山は建築・工芸方面では江戸初期や同中期に溯るものがなく、江戸末期およびその後の製作に係るものと認められる。

孔明祈水山

蜀の諸葛孔明が、魏の曽操と戦ったとき、流れる水を見て「敵の大軍を押し流してください」と水神に祈り、大勝をした故事によります。山は万延元年まで福聚山といいました。また俗に「祈水山」ともいいます。
所望は孔明が扇を開いて水を招くと、水が湧き上がり、流れ落ちる仕掛けです。

石橋山

謡曲の石橋にもとづいたもので、大江定基入道寂昭が宋の国に渡り、天呂山に入って、文殊菩薩の浄土と伝えられている険しい石の橋を渡ろうとしたとき、獅子が現れて、牡丹の花に舞い戯れるのを見ました。牡丹に狂う唐獅子で有名。
石橋山は最初、「靭猿山(うつぼざるやま)」といっていましたが、延享年間から今の石橋山に変わりました。
所望は天呂山の岩石の中から唐獅子が出てきて牡丹の花に戯れ遊び、また岩の中にかくれます。
石橋山の概要
石橋山は唐獅子山とも言い、大津市役所の調査資料によれば江戸初期、寛永二年(1625年)または正保二年(1645年)の製作と伝えるという。山の名は能楽「石橋 しゃっきょう」に因むもので、その由来は天台宗の僧の寂昭が仏道修業のため宋国に渡ったが、ある時青涼山(天台山)の中で文珠菩薩の浄土と伝えられる一つの険しい石橋を渡ろうとしたところ、獅子が岩陰の牡丹にたわむれているのを見たことから来ているという。
それゆえ、山の上層には本骨紙貼の大小二個の岩があり、岩の中に仕掛の台が仕掛られ、その上に獅子を載せ、岩に造った溝と二本の綱によってこれを操るようになっている。獅子は岩の中からとび出して牡丹の花に戯れ、再び岩の中に隠れるという所作が演じられる。

西行桜狸山

俗に狸山といい、塩屋治兵衛の狸面の伝承を持ちますが、明暦2年に西行法師が桜の精(仙人)と問答を交わす熊を現した人形を用いるようになって、その名を西行桜狸山と改めました。
狸は、屋上に載せられて、祭の先導ととも守護とも見られるようになり、祭日の天気を守ることになりました。これにちなんで、この山は毎年くじとらずで、先頭を巡行します。
所望は、花の中から仙人が現れて、西行法師と問答します。

西行桜狸山の概要

慶長年間(1596-1611年)、塩売洽兵衛なる者が天孫神社境内で木製の狸の面を付けて踊りをしたのが起りという。現在の山の形は寛永12年(1635年)に始まり、明暦2年(1656年)に大体できたというが、現行のものは材料、様式ともに江戸末期以後のものが大部分と認められ、ことに昭和の初め(六年頃)に唐破風屋根などの大改造があって、現状となった。構造形式は向唐破風造曳山式、三車輪、上・下部に大別、上部の木柱(方柱面取)、斗供出三ツ斗、上層後部に高欄付壇を置く。屋上前部に狸像を立てる。

所望場所20

所望場所19

所望場所18

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